G.フォーレ 歌曲「贈り物」の歌詞
OP46−1
 1887

贈り物
                              

とある夕暮れに、あなたが私に問いかけたなら、 
私の病める心の秘め事について、
わたしは述べるでしょう、あなたの心を揺り動かすために
遙かな昔の物語(バラード)を!
  
苦悩について、あなたがわたしに話してくれたなら、
迷いから覚めてしまった期待(希望)について、     
わたしは摘むでしよう、ただひたすらあなたのために
あふれる露に濡れた薔薇の花を
 
亡き人たちの花と同じ様であるなら、
墓所という異郷にふさわしく、咲き染める、
私の悔恨を分かち合ってくれるなら、 
わたしは鳩たちを携えてくることにしょう。
 
                    ヴィリエ ド リラダン

 

音色の設定の練習のつもりで作った曲。
最初の2小節でフォーレは、この音型で行きますよ!と宣言しているのがわかります。「夜曲」に似ているなと思いました。でも弾いてみると違う。荘重さと道化が同居しているような曲?。1回目のくり返しの直前で、つまらない終わり方だと感じました。
  ところが、その次からフオーレ特有の転調が始まる。臨時記号の扱いがまだよくわかっていないので、うまくできているかどうか心配になる。楽譜が親切に元に戻りましたよ。と言っているのか、本当にフラツトなのか、よくわからない。^^;(僕ってこの程度です)
  ともかくこの曲はこの音型のヴァリエーションで作られている。そのことがわかると、後は楽曲の作り方についての知的興味が優先してきます。かの有名な「旋法交換」がどこにあるのか?どのようにフォーレは音を料理していくのか?

  ちょっと脱線します。
「これで行きますよ」という宣言、あるいはメッセージはクラッシック音楽に限らず、いろいろな音楽で見いだすことが出来ます。特にドイツの音楽はこういうメッセージや宣言に満ちあふれているように思います。「まず神ありき」といやつです。
  こういう雄弁がぼくはあまり好きではありません。
ただ、ブラームスは『宣言』はしません。(と言うか出来なかった?)フォーレと同じで、楽曲の中にあるいろいろなメッセージは千変万化しますが、もっと小声で語りかけるように響きます。特に後期の音楽がそうです。ただフォーレのように道化が入り込む余地がないという印象。
どちらもサロンの音楽だからでしょうか?・・。
実はフォーレについても、後期のブラームスについても、「サロン」の音楽だと感じる感性が僕にはよくわかりません。
もともと「サロン」と言う言葉には侮蔑の響きがあります。われわれ「サロン」の経験のない東洋人だから、フォーレをサロンの音楽家と言うのでしようか?ともかくフォーレがサロンの音楽家だと言うのはひとつのステレオタイプだと感じます。

だいぶ脱線、いや脱輪しました。
どうもこの曲僕は僕は好きでないです。こういうのがサロン風なのだろうか?



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