G.フォーレ 歌曲「秋の歌」の歌詞
OP5−1 1871
CHANT D’AUTOMNE(秋の歌)
わたしたちはやがて冷たい闇の中に投げ込まれるだろう。 | |
さらば、つかの間の夏の輝かしい光よ! | |
わたしは聞く、中庭の石畳に | |
悲しげな響きをたてて落ちる枯れ枝の束の音を | |
おののきながら私は聴く、薪がそぞろに落ちる音を | |
断頭台を築く時にも、これほど陰鬱な響きはしない | |
わたしの心は砕かれてゆく。 | |
倦むことを知らない重い槌にくり返し打たれて | |
この単調なものの響きに揺られていると、 | |
わたしには誰かが大急ぎで棺の蓋を釘付けにしているようにきこえる | |
誰の棺だ? 夏はきのう、 今はすでに秋! | |
この怪しき物音は野辺の送りの鐘と鳴る。 | |
わたしは愛する、切れ長の君の眼の緑の光を。 | |
やさしくも美しき人よ、しかしすべてが今日は苦しい。 | |
あなたの愛も、寝やも、暖炉も、 | |
わたしにはすべて海に輝く秋の陽に如かず。 | |
シャルル・ボードレール |
暗い曲です。フォーレは生来の控え目さとある種の投げやりな性格によって、無頓着にこのような曲を、ヴィアルド家のサロンで弾いたらしいです。そしてプルーストはサロンで聴いたこの曲に(特に終わりの部分に)感銘を受けたのだそうです。 冒頭のグレゴリオ聖歌の音型がこの曲全体を支配します。枯れ枝が石畳に落ちる音と、死と悲哀が前奏部分で見事に描かれています。やがてppで始まる伴奏の三度、四度のくり返しは祈りのようで、「レクイエム」を思い出させられます。終わりの部分では重い死の響きは秋の(女性の澄んだ瞳の)透明感の中に昇華します。 ブラームス晩年のインテルメッツオも暗いけれど、どこか似ているように思います。また、「後期の」フォーレの音楽にも近いような。そもそも前期のフォーレと後期のフォーレをわけて考えるのは間違いではないか?なんて思います。ヴィアルド家のサロンで、この曲の後に発表されたのがあの有名な「夢の後に」だそうです。一見同じ作曲家ではないみたい! |