はじめの詩人は リルケ です。
ライナ−・マリア・リルケ 1875−1926。
新潮文庫で読むことが出来ます。翻訳者 富士川英郎 氏

1875年12月4日、プラハでドイツ系の両親の一人息子として生まれた。
リルケ9歳の時に両親の不和から別居し、孤独で異常な幼年期(母は早く死んだ娘の身代わ
りに、彼に少女服を着させて育てた)の後、ザンクト・ペルテンの陸軍幼年学校から、メ−リッシ
ュ=ワイスキュルヘンの陸軍士官学校に送られた。リルケはこの学校生活に苦しみ、ほとん
ど何一つ学ばず、友人もできないまま、ついに健康を害した事を理由に退学している。リンツ
の商業専門学校に1年在学した後、プラハ大学の法学部に入学。1896年ミュンヘン大学に
移り97年にはベルリン大学に移った。この年月をつうじ彼は散文詩文を絶えず書き続けてい

 リルケがル−・アンドレ−アス=ザロメと出会ったのは1897年。彼より年上のこの優れた女
性に彼は情熱的に引きつけられ、彼女から決定的な影響を受け、生涯の終わりまで折にふれ
彼女を相談相手にした。彼女はロシア生まれであり、出会った2年後には彼女とともにその生
地ロシアを旅している。その土地のスケ−ルの大きさと美しさに感銘を受け、同時にそこで出
会った人々の精神的な深遠さにも心を打たれたリルケは、神がすべてのもののうちに存在す
るとの信念を植え付けられた。後に彼は、かの地で初めて自分のほんとうの故郷に帰ったよう
な気持ちがしたと語っている。ル−はあのニ−チェの恋人でもある。
 ロシアにおけると同様彼にとって98年春のフイレンツェ滞在も自己開放的な体験だつた。イ
タリアルネツサンスの「生を高揚させる」ような此岸性にも彼は浴した。生の神秘と不思議を発
見し啓示する芸術、神の真の示顕者ないしはさらに創造者としての詩人と画家たちに接した。
                            (以上エンサイクロブリタニカ、マイクロソフトエンカル-タより)

以上の解説を読まれた方には、「大空の」色は何色に見えるでしょうか。
私にはロシアの色→ソフィアの青、コンスタンチノ−プルの青、それからオリエントと
ペルシャ、中国の青、李白の青、青磁の青につながつてしまうのです。

この詩の中で違和感を憶えるのは最後の一連でしょうか。キリスト教の方は、すぐに
「限りなく優しく」支えているのは神だと答えられますが、諸行無常の世界に住む我々は
必ずしもそう感じない。この神は「異教」の神と解釈してもなにも不都合はないと感じます。

それどころか、私はエピクロスの神を連想します。確証はないのですが、エピクロスの神
も全ての物は落下すると説いたはずですから。リルケが地球も落下すると書いたとき、な
にか暗示しているような気がして仕方ないのは私だけでしようか。ちなみにエピクロスは
物が落下するときわずかな偏差が生じると言い、そこに自由が生じると説きました。マルク
スがそこに注目したというのは有名な話です。

いろいろ思うことは限りないのですが、空の青さと否定の身ぶりで落ちる木の葉を味わうこ
とがこの詩の全てです。

 

 

 

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詩人は 萩原朔太郎 です。
1886−1942。
ほとんどの文庫本、教科書でも読むことが出来ます。

大正−昭和期の詩人。前橋市に生まれる。はじめ与謝野昌子や石川啄木の影響下に短歌を
つくったが、後に詩作に転じ、北原白秋や室生犀星と親交を結んだ。1917年(大正6年)に発
表した第1詩集「月に吠える」は、するどい感覚で自己の内面世界を形象化するとともに口語自
由詩を確立した詩集として詩史に特筆されることとなった。第2詩集「青猫」(1923年)ではさら
に口語表現の成熟を見せたが、「純情小曲集」(1925年)、「氷島」(1934年)では一転して漢
語を多用した文語で怒りや悔恨を強く表現し、物議をかもした。
 散文の著作も多く、「新しき欲情」(1922年)、「詩の原理」(1928年)、「郷愁の詩人与謝蕪
村」(1936年)、「日本への回帰」(1938年)などがある。

 彼は幼少期より腺病質で、神経質な少年であり、音楽好きで、ハ−モニカや手風琴を愛した。
これは後年のマンドリンへの熱中につながる。母方の祖母サトに過保護気味に育てられ、生涯
世上のことについてはきわめてうとかった。旧制の中学、高校時代には何回か落第し、退学し
ている。後年彼は中学時代をこんな風に回想している。
「私の中学に居た日は悲しかった。落第。忠告。鉄拳制裁。絶えまなき教師の叱責。父母の嵯
嘆。そして灼けつくような苦しい性欲。手淫。妄想。血塗られた悩みの日課!」・・・・
 だが、この酒と女のほかには一文にもならない詩を書き、マンドリンをかき鳴らすしか能がなく
親のすねをかじってのらりくらりと生きている、父親に言わせれば、どうしょうもない「できそこな
い」の息子朔太郎は、失った愛への煩悶や、性欲の衝動や、アルコ−ルによる神経症的疾患の
苦痛の中で、病的なままに鋭く冴えかえる感覚をもって、かつてない詩の世界を創り出した。
                        (エンカル-タ、ブリタニカ、嶋岡晨「愛と孤愁の詩人たち」より)


ああ今の貴方だったら彼を救うこともできたかもしれません。(微笑)
私も救ってほしかった。(爆笑)
この二十年で日本の制度も内面もずいぶん変わってしまった。
しかし、時代は変わっても詩人が「できそこない」であることに変わりはないようです。
取りあげた詩は「純情小曲集」の中の愛憐詩篇。(初期の抒情詩が集められています)
僕はこの詩の第1連(れんはこの字じゃないかな?)が特に好きです。アジサイの花の
あやうい色彩の変化が見事に歌われている。色彩の変化がそのままこころの象徴に
なっている。象徴というのは単なる喩えではなくて、真理そのものとは思いませんか。


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詩人は ヴェルレ−ヌ です。
1844−1896年
これもいろいろ出版されています。私のは堀口大学訳
新潮文庫

この詩に解説がいると思います?
しかし調べてみるとこの人の生涯は波瀾万丈。


ああそうだった。迦陵頻迦の説明だけは必要だ。
これは梵語Kalavinkaから来ている。妙音鳥、好声鳥などと意訳。仏教で雪山、または
極楽にいるという想像上の鳥。妙音を発し、聞けどもあきることがないという。
声に「若空無我常楽我浄」の意を伝えるといい。その像は人頭鳥身の姿で現す。インド
などでブルブルと称する鳥のことだという。


さて、ヴェルレ−ヌの生涯について書かねばなりませんが、その前に象徴主義について
少し解説が必要かもしれません。この詩を味わうのにこのような芸術上の運動について
理解しておくことは必ずしも必要ではないと思いますが、詩というものの考え方に大きな
変革もたらしたのはこの象徴主義の運動だと言われています。ヴェルレ−ヌとボ−ドレ−

ル、マラルメという人たちが象徴主義派の祖だと言われているのです。
 象徴主義とは何のことか。
 19世紀末期フランスに興った、主観的情緒をを象徴にによって表現しようとした芸術上
の運動のこと。フロ−ペル、ゾラなど、19世紀半ばの写実主義、自然主義の作家たちが
実証的で正確な描写を方法としたのに対して象徴主義詩人たちは、詩の言葉の内に現実
を越えた神秘的なものを暗示させることを目指しました。最も暗示的な芸術、無意識の深
層にまで達しうる音楽が範とされ、非現実的で様々に解釈しうる神話性がその特徴です。
 彼らによれば「象徴」としての言葉が、感覚出来る事物と、感覚を越えたものとの媒介と
なります。このような神秘主義的傾向は19世紀前半のロマン主義から受け継がれたもの
だと言われています。ドイツの作曲家ワグナ−の楽劇が詩人たちに大きな影響を与えて
いるとも言われています。また、「世界は我が表象」というショ−ペンハウエルの哲学もこ
の美学の背景にあるといいます。
 しかし象徴主義派はロマン主義よりもなお一層、詩的言語の効果というものを知的にと
らえており、マラルメは「純粋な言語」をつくりだし、詩を十分に計算された言葉の錬金術
のなかに封じ込めたとされています。

 
・・・・それで、ヴエルレ−ヌの生涯。
実はそれを書こうと思って、2、3冊の本を読んでしまった。
この詩はもうずいぶん昔から知っていたのですが、どんな人か全く関心がなかった。
しらべてみてびっくりしましたよ。
とってもここには書ききれない。
「母親に溺愛されたわがまま息子」「飲んだくれ」「聖者ヴェルレ−ヌ」「牢屋入り」「俗物」
「同性愛」「バイセクシュアル」・・・・・

比較的手に入りやすい本を紹介します。
    清水書院 人と思想シリ−ズ121「ヴェルレ−ヌ」



最後に私の感想をちょっとだけ。
この詩は1870年頃、彼の妻となるマチルドとの出会いを歌っています。
彼がひそかに恋していた従姉のエリザが亡くなったあと、しばらく彼はア゜サントに溺れ
悪所がよいにうつつをぬかし、同性愛に悩むすさんだ生活をしていた。それが、6月の
ある日彼女に出会う。
「ストレ−トな」まっとうな生活へのあこがれがここには窺えます。

ある評者によれば、この「優しいうた」は彼の詩集の中で最も俗物的なものだという。
ヴェルレ−ヌはほんとにこの時「まっとうな生活」をしようと決意したことでしょう。
破滅と救いが一幅の光景になっています。
しかももっとも素直な歌声で歌われているのに感動します。
まぶしく明るい光景は実は「夢の奥深い暗闇」から眺められています。
数年の内に彼はまたもとの飲んだくれに戻ります。
以前よりもっとひどい「奥深い暗闇」の中に。ランボ−の登場。地獄の季節のはじまり。
この詩を読むと僕はいつもフォ−レのピアノ4重奏2番の一節を思い出します。
どなたか同感のかたいらっしゃいますか?

 

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詩人は山村暮鳥です。
1884〜1924年
これも新潮文庫から。彌生書房 山村暮鳥全詩集もあるはずです。

本名土田八九十。1908年聖三一神学校卒業。キリスト教牧師となり、かたわら北原白秋、
室生犀星、萩原朔太郎を知り、「三人の処女」(1913年)、「聖三稜波璃」(1915年)などの
詩集に直感的で難解な象徴詩風を展開。その後次第に平明な牧歌的、人道主義的作風に
転じ「風は草木にささやいた」(1918年)、「雲」(1925年)、などの詩集を刊行した。

最近この人の詩はずいぶん見直されているようです。
あの有名な教科書にものっている「春の河」の詩人です。/たっぷりと春の河は流れてゐるのか
ゐないのか/で有名。

初期の頃はヴェルレ−ヌ、ボ−ドレ−ルばりの難解な詩を書いています。
後期の詩はたしかに平明で、人道主義風。
この詩が収められている「雲」のころから、この人の詩には「ある時」と題された詩が増えてき
ます。「ある時」という詩はこの詩だけじゃない、同じ題でほかにもたくさん魅力的な詩があります。
瞬間というものの尊さをこの詩人は実感します。
 「瞬間」というものの意味については私ではとても解説しかねます。哲学的な解説を期待され
る方はキルケゴ−ルやバシュラ−ルという哲学者のものをお読み下さい。瞬間というのは永遠
と今の出会いであり、また現在と永遠との絶対の断絶であり、それが「ある時」なのです。
この詩の中にも「さやうなら」という言葉が二度も使われています。垂直的な真の時間があって
木蓮の花は底なしの果てまで響くような大きな音で落下します。まあ、なんという大きな音でしょう。
言いしれぬ寂しさがあります。



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作詞 吉井和哉
?〜?

吉井のおじさんはまだ生きているだろうか?
これも解説の必要はないでしょう。実は昔この歌をきいたのをおぼろげに憶えている。
イエロ−モンキ−ズの歌の一部だと言ったらわかる人はわかると思います。
この歌が歌われてからテレビのキャスタ−は本当に「乗客に日本人はいませんでした」と
は言わなくなった?!
 
日本人が初めて世界の遠くまでたくさん出かけるようになった時代の歌かな。今じゃニ
ュ−ヨ−クだってとなり村です。デジタルで加速度の時代だから日本人のとなりにアメリ
カ人がいて、中国人がいてもおかしくなくなった。キャスタ−も嬉しそうにする必要がなく
なった。世界には遠さとか近さとが無くなって、トルコの惨事も、電車の隣の席でメ−クす
るお姉ちゃんも一緒みたいですね。
 だから僕はなにを思えばいいんだろう/ 僕はなんて言えばいいんだろう

 

 







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詩人は李賀(Li He)です
791〜817
私は講談社文庫の「中国詩人伝」 陳舜臣さんの本から引用しました。
岩波書店の「中国詩人選集」第1集14巻にもあるはずです。

一気に1200年昔に飛びました。8世紀から9世紀というと、日本は東大寺が
建てられた頃、ヨ−ロッパではフランク王国のカ−ルが西ロ−マ皇帝に即位して
ようやく文明の恩恵にあずかりはじめた頃。世界の中心はイスラムのバクダ
ットと東ロ−マ(ビザンチン帝国)のコンスタンチノプ−ル、そして中国の唐帝国
の都長安でした。もちろん近代文明なんかは影も形もありません。
 800年頃というと大唐帝国も長い斜陽の時期に入った時代。去勢された宦官
たちが世の中に害毒を流し始めたような時代です。出世のためには当然賄賂
が必要なような時代。


陳舜臣さんの解説をそのまま引用します。

『これは李賀が韓愈のもとで同門であった陳商に贈った34行の詩の冒頭の部分
である。陳商はまだ無官であり、李賀は奉礼郎という、従九品の微職についていた。
この詩は元和元年(812年)の作と推定されているから、李賀22歳のきの作品と
いうことになる。二十にして心已に朽ちたりとは李賀自身のことにほかならない。実
は引用した部分のすぐ次に「凄凄たり陳述聖」と、贈る相手の陳商のことに言及し
はじめる。

  中国禅の基本となった「楞伽経」を机に積み上げ、屈原の「楚辞」をすぐそばに置く。
心が朽ち果てた若者は、人生の窮拙(挫折)を知り、夕方から酒を飲んでいる。まだ
若いのに彼の前途はふさがつていて、人生の悲哀を感じるのに、白髪頭になるのを
待つ必要はない。・・・・』


 先日、ある年輩の方に、二十にして心已に朽ちたりの話をしたら「そうなんだよね
最近の若者は老人みたいな奴が多い」と・・・・・
そうじゃないんだって!格調高く傲然とした拒否の声は、それじゃ1200年の時を
越えて届きはしませんね。
 それにしても中国文明の先進性をいやというほど思い知らされます。
魯迅、毛沢東、譚嗣同なんていう中国の革命家は李賀が大好きだったそうです。

 

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これも李賀(Li He)です
791〜817
平凡社 東洋文庫の645 李賀歌詞編という労作があることを知りました。


欧米の文学も同じことで漢文もいろいろな知識がないと全然歯が立たない。
特に
「楞伽経」や「楚辞」を手許に置く李賀は・・・・。
まずは意訳から(「中国詩人選集」荒井健氏)

      しのびやかにも美しい蘭の露は、
       涙を浮かべた彼女の眼。
       同じ心の二人を結ぶべき物もなく、
      夕闇に包まれる花は贈ろうとしても剪ることが出来ない
      草は敷物
      松は車のほろ
      風の音はきぬづれ
      きらびやかな車は永久に待つ
      冷ややかなみどりのともしび
      かがやきは疲れ
      西陵のほとり風雨が黒暗


さて、これでも意味がわからんのではないでしょうか。
明治時代までは日本人にも漢文や中国史の教養があって、漱石にしても萩原朔太郎
にしてもここまで意訳すればすぐわかったにちがいないのですが、今の私たちにはそう

簡単にわかるわけないです。

しかし、「涙を浮かべた彼女の眼」。で、これがLOVEをテ−マにした詩であることは
想像できるでしょう。この詩は、李賀よりもまだ昔、蛮族の侵攻を避けて多くの中国人

たちが中国の揚子江よりも南に移住した時代の斉という国(479〜571)に居た、蘇
小小という名の「名妓」の歌なのです。「名妓」ってなんのこと、だ゜って?。「名妓」とは
娼婦ですよ。ただし教養のある詩も作れるような有名になった「娼婦」です。「近代」以
前は世界中どこでも女性は「娼婦」か「主婦」かでした。?

  李賀はこの有名な「名妓」に名を借りて詩を書いていますが、実はこの歌は李賀の
恋人を歌ったのだという説もあります。この詩の書き出しからして特定の人格に向けた
詩だということはなんとなくわかるでしょ。それにほかの詩によると李賀は長安で娼家の
近くに住んでいたようです。

東洋文庫の原田憲雄氏は、「締眼の如し」のところを次のように解釈します。
「露しっとり」などと愛想を言って近かずいた男が去った後の、蘇小小の涼しい眼もと
がどのように変わったかをこの3字(如締眼)が語る。締は声を放って啼くこと。締眼は
放つべき声が禁圧されているために、眼から涙となって滴り出た感じを誘い。「如」とい
う直喩法でせき止められているため、その効果が一層強められている。
あなたわかりますか彼女の心。
 蘇小小が贈ろうとした花は媚びて相手 の気を引こうとする花ではない。離別の印の
「煙花」を剪り取って帰って来もせぬ(とわかっている)男に差し出すのも忍びない。
蘇小小の差し出す花は霧や霞につつまれると幻のように消える「煙花」。
風が去り、雨が止めばうつつよりも鮮やかに現れる。それが「幽蘭」。
  蘇小小の恋は、「無物結同心」で、完成の可能性は現在にも未来にもない。
しかし、過去においては「愛」あるいは「愛」に似たものを示され、それが彼女を恋に導
いた。「愛」あるいは「愛」に似たものが消えてもゆかりの花は残っている。それが「幽蘭」
であり「煙花」である。死んでも死にきれずに蘇小小の魂魄はさまよう。

「草は茵の如く」−茵は車の座席の敷物、クッションのこと
「松は蓋の如し」−車の上を覆うホロ
「風を裳と為り」−風がもすそ。もすそはスカ−トのこと。もすそのゆれる音
「水を珮と為す」−河の音が珮玉のふれあうような音。
「油壁車」−青色の布をかぶせた身分の高い人の使うきらびやかな車 久しく相待つ。
「翠燭」−現実を越えた鬼火、燐火のこと。(鬼才李賀の独壇場) 翠は鮮やかな緑。
「労光彩」−疲れ切った光彩がやがて消えること。
「西陵の下」−抗州の西湖にかかる西陵の下。
「風雨晦し」−晦いは真っ暗闇の不気味な暗さ。

「幽蘭」の露は締眼の如くではあるが、声を放って啼き崩れてはいない。
啼くことをこらえて彼女は待ち尽くす。
やがて疲れ切った光彩が消え(李賀の現実に見る)、漆黒の西陵に蘇小小のために
雨が降る、風が吹く。狂おしく。(なんかアポリネ−ルの詩に同じようなのがあったな)

李賀の「蘇小小歌」は女性の尽きぬ悲しみを歌い、この詩の成立する時間は強いて言
うなら「鬼時」と言うべきで「西陵」がどこかを詮索する議論は昔からあるが、それはたぶ
ん「鬼時」と垂直に交差する「鬼処」なのだ。と東洋文庫の原田憲雄氏は書いています。
「生は一瞬死は永遠」と李賀は考えていたのでしょうか。この詩を人間解放の詩と読めば
魯迅や譚嗣同、毛沢東のような人が心酔したというのもよくわかると思いませんか。


さて、もう一回詩を読んでみて下さい。だんだんこの詩のすごさがわかってくるでしよう。


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詩人はヘッセです。ヘルマン ヘッセ。
1877〜1962

この詩はそれこそ何度も読み返しています。新潮文庫にもあるし、新潮社のヘッセ全集に
もあります。ヘッセの亡くなったのは1962年。著作権切れまであと12年もある。

名言、ことわざ、格言と詩の間にはどのような距離があるのでしょう。
もう少し若い頃は、このような詩はホントの詩じゃないと感じていた。このような言葉が詩と感
じられるようになったらもうおしまいだぐらいに思っていた。
私もそろそろおしまいの時期です。こんな言葉が好きになってきました。

ごく簡単にヘッセという人について解説します。
ドイツ生まれの小説家詩人。1945年の第2次大戦の終結と共に、自我を求めて苦しむ若者
、特に若い芸術家の姿を描いた作品が若い世代の共感を得て人気を集めた。
シュワーベン地方のカルフに生まれ、父親がかつて牧師をしたこともあって神学校に入学した
が、まもなく退学。その時芽生えた格式張った教育への反発はのちに小説「車輪の下」に鮮烈
に描かれている。退学後はもっぱら読書を通して独学。はじめの頃は書店に勤めたりしながら、
詩や小説を書いたりしていたが、そのころの体験から、真実なを求めて彷徨する自堕落な作家
の生活を描いた出世作「ペ−タ−カ−メンチント」(1904年 邦訳 郷愁)が生まれた。

1911年、アジア各地を旅行して、スイスのベルンに移住した。第1次世界大戦が起こると 、平和
主義を表明したヘツセは、ドイツから裏切り者と糾弾された。戦争と離婚によって絶望と幻滅を味
わった彼は、それらの苦悩を解決する道を求め続け、そのことが以後の作品の主要なテーマとな
った。彼はそれまでの抒情性から、新しい目標や価値を探求する精神世界に向かうようになる。
そうした作品のひとつが「デーミアン」(1919年)であった。この作品には彼自身が精神分析医の
診察を受けた、スイスの精神科医ユングの理論の影響が色濃く現れている。夢想的な性格のデー
ミアンと知的なシンクレアという人格の二面性が象徴的に対比されていて、それが20年代の知識
人たちの関心を引きつけることになった。

1923年には彼はスイスの市民権を得て、モンターニョラに移住。彼の作品はその後ますます
象徴的モチーフと精神分析的な要素を取り入れる傾向が強くなった。「東方巡礼」(1932年)は
ユングの理論でいう神話的類型を適用しようとする試みであり、「シッダルータ」は(1922年)は
インドへの旅によって芽生えた東洋神秘主義への関心を投影した作品である。

「荒野の狼」(1927年)は彼の小説の中で最も革新的な作品と言われている。主人公の芸術家
は、二面的な本姓(人間的なものと狼的なもの)を持つが故に、悪夢のような迷宮に迷い込んで
しまう。つまりこの作品は、反逆しょうとする個人と、ブルジョワ的伝統との間に横たわる亀裂を
象徴的に描こうとする試みだった。この手法は、おそらくヘッセの作品の中ではもっとも美しい
「ナルチスとゴルトムント」(1930年 邦訳 知と愛)でももちいられている。この小説には「車輪
の下」で描かれた学校への反逆のテーマもこだまのように描かれている。

ヘッセの最後の作品は「ガラス玉演戯」(1943年)。ユートピア的な未来社会を描いた作品で、
彼の関心が最後に行き着いた地点をしめしている。作品の中で彼はこう書いている。「詩人は悲
しい孤独者で、音楽家は憂鬱な夢想家であるかもしれないが、そういう場合でも、その作品は神
々と星との明朗さにあずかつている」。この作品には、最後まで自我をつらぬいた人の明朗さが
表れているようです。

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さてこの詩の「日々の煩いにたんのうする人」とは誰のことですか?私は私のことだと思っています。

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