第一回 情報活用能力って何ですか
いま進められている教育課程の改訂で,小中高一貫の情報教育の充実が重要課題とされた。情報教育は,小学校では「総合的な学習」に位置づけられ,中学校では技術・家庭の選択「情報基礎」が,「情報とコンピュータ」として必修化された。また,高等学校では普通教科として必修の「情報」が設置された。ここでは3回にわたり,情報教育のこれからの具体的展開について,その背景を明らかにしながら解説を試みる。
情報教育というと,コンピュータのトレーニングが目に浮かぶ。キータイピングやワープロ,表計算ソフト活用の習熟等,初期の頃はこのように考える人が大勢いた。しかし,コンピュータが使えればそれでいいのだろうか。
かって情報教育では,プログラム学習の理論を取り入れたCAI(Computer Assisted
Instruction コンピュータ支援教育)と呼ばれる手法があった。CAIソフトの多くは,教材作成ツールを用いて,教師が多忙な時間を割いて制作したものである。到達具合に応じて個別の学習ができるが,結局は画一的な結論にしか到達できないものであった。しかし,CAIの手法は教育工学に支えられ,教材のあり方や,子供が過るとは何かについて,根本から考え直すきっかけになった。
つぎにコンピュータを,知識(情報)を支える「道具」として活用しよう,という考え方が生まれた。どうしたら効率よく資料を整理できるか,どうしたら論理的な文章ができるか,どうしたらわかりやすく表現できるか,というように知識を扱うための道具という考えが広がった。
しかし,時がたてばコンピュータの規格やソフトウェアも変化し,新たに操作法を学習し直さなければならない,というやっかいな問題は解消されない。
そこで,その道具を使う人間の能力とは何か,ということが考えられるようになった。道具よりその主体の人間の方が重要と考えられ,その能力を情報活用能力(情報リテラシー)と呼んだ。
ところが,その能力を育成するのに,これだという教科が見あたらない。実際この能力を基本ベースにして,すべての教科がのっかかっている。こうして,教科間を結ぶ横糸として,すべての教科を横断する「情報活用能力の育成」,という考え方が生まれた。
ところが,理科でコンピュータ・シミュレーションを用いて,目に見えない電子の動きを視覚化したり,数学で手書きによる表示が困難な関数をグラフ化して示す等,情報手段の活用で教科の目標を達成することは,イメージしやすい。しかし,情報活用能力の育成となると教科内でのイメージが浮かばない。特に中学・高校と教科の専門性が大きくなるにつれ,教科目標の達成が一番に考えられ,より情報教育の導入を困難にしている。
そこで今回の教育課程の改革では,「知識の統合」という新しい考え方を持ち込んだ。その1つが総合的学習であり,選択科目の拡大であり,課題を中心とする学習である。これからの情報教育は,このように知識を関連づけ,整理し,まとめるといった統合の方向に進んでいく。
第二回 生きる力を育む情報教育
中央教育審議会は21世紀の子どもたちの中核的能力を「いきる力」とした。今日,情報教育は世界的規模でその必要性が論議され,様々な国において,その努力がなされている。情報活用能力は,未来社会における新しい学力として認められてきており,情報化社会の中で「いきる力」を育成するための新しい教育が求められてきている。今回は,情報活用能力の育成を通して,日本の子どもたちの学習環境もどのように変化しなければいけないかを探ってみよう。
地球規模で広がっているネットワーク化の波に対し,先進諸国はコンピュータの普及率を高め,通信ネットワークを整備して,21世紀の教育に対応しようとしている。情報ハイウェイ構想を立ち上げたアメリカは,インターネットのインフラ事業に投資を集め,現在の好景気を引っ張った。欧米諸国のみならず,アジア諸国でも情報教育は必修または全員に選択させている国が多く,社会全体に進む通信インフラも整備が進み,知識伝達型の教育環境の日本との落差は開くばかりで,日本は完全に世界から取り残されてしまった。
科学技術の先端にいるはずの国でありながら,科学技術に興味も関心も示さない日本の状況が,OECD(経済協力開発機構)の調査で次のように報告されている。「市民の科学的リテラシーに関する日本の状況は,世界の常識から外れたものである。日本のこの特異な状況は,戦後から高度成長期までは科学技術教育に力を注いだが,最近は科学技術の進展にも関わらず,科学に関する教育はその程度を下げてしまったか,あるいは停滞してしまった。現代社会は科学技術社会であり,今後ますます科学技術に関心を持ち,それぞれの市民が科学技術に責任を持つ必要がある」。科学的認識の低さは,そのまま情報教育環境にもあてはまる。外国から赴任した英語助手や,学校訪問に訪れた方々は,一様に,「すばらしいハードウェアを生み出す日本の学校では,教室にはパソコンや視聴覚機器が潤沢に整備されていると思っていた」と言われる。いつまでも知識偏重型の,黒板とチョークだけの教育が続く日本の現状を変えるのは,もはや情報教育をおいてない。
デンマークでは日常の学校の授業で,一人一人が自分の意見を持ち,それを表現することや,人の意見を尊重することを学ぶ。また議論をぶつけ合った上で,みんなで決めたことにはきちんと従う。加えて社会で基本的な力の問題解決力,コミュニケーション力,マネジメントを学ぶ。日本の学校ではこのような力をつけるための系統的な取り組みはなく,多くの先端研究分野や成長産業で欧米に歯が立たない。社会で必要な分析,統合,そしてこれらに基づいて最終的に自分で判断,選択する力が教えられていない。
情報教育ではビデオプロジェクターや大型スクリーンを活用した表現(プレゼンテーション)を授業に取り入れるとよい。人を相手にしっかりと表現し,交渉する態度や技量を養うことができる。また,インターネットを通じて,世界中の人々と電子メールやテレビ会議を行い,異文化の理解力や,コミュニケーション力を養うことができる。このインターネットは巨大なデータベースであり,知識ベースの経済に移行した今日,必要な情報を主体的に集め,分析し,課題に対する結論を導き出す問題解決能力を養うのに利用できる。情報教育が,子どもたちの生きる力をはぐくむ,21世紀の識字教育になろうとしている。
第三回 情報教育の授業スタイル
いま学び方が根本的に変わろうとしている。今まで学校では知識を中心に学んでいた。ところが社会に出ると知識だけでは仕事にならない。生きるために必要なのは,分析したりまとめたり、最終的に自分で判断し、選択する力である。
これまで何を学ぶかは学校なら文部省、企業なら本社で企画し,教科書や指導マニュアルを作り、授業や研修をしてきた。この授業スタイルは,教師や講師による一方通行的なものである。教える側が前もって理解し,知識を準備し,わかっている者がわかっていない者へ伝達する,教え込むスタイルがとられていた。しかし,これでは今日の世の中の早い動きについていけない。企業にとっても大きな悩みになっている。リアルタイム(即時)の情報を入手し,分析,統合して発信することができない組織は,社会の発展から取り残されてしまう。しかし,インターネットなど双方向型メディアの発達で、誰もがどこでも主体的に双方向に情報を入手,発信出来るようになった。
インターネットは,教師も子どもも自由にアクセスできる知識の大海である。押し寄せる情報の波の海原にこぎ出す,子どもたちの船の舵取り役が教師である。子どもたちは自ら学ぶ力を元々もっている。失敗をおそれず興味のあることを見つけ,収集した情報を元に未知の課題に取り組む。実際に体験し試行錯誤を通じて、本当に役立つ知識を得,判断力を養う。そして子どもたちは問題解決という生きる力を身につけていく。
問題解決に古くから取り組んでいるデンマークでは,子供本人の興味や得意分野に応じて、個別に学習目標が設定される。中学3年までペーパー試験の評価はなく、一人ひとりのびのびと自己表現することが奨励される。先生が”教える”のではなく、子どもたちの体験や観察等に基づいて自ら考え,発見的に学習が進むよう教師は支援する。学習したことは、教師や他の子どもたちに発表し,また相互に議論しあう。こうして学習の定着をはかるとともに、表現力・コミュニケーション力を養い,国際的に活躍できる人材が育成される。
授業は,教師の説明や指示がなくても成立し,教師以外から学ぶことが試みられ,子どもたちが集めた情報を,教師と一緒に整理し,発表する形が求められる。。
子どもたちが情報受信型の教育から,インターネット時代の情報発信型の教育へ移行するには,課題に対して意欲的に取り組める環境が整備されており,また表現する力が育成されていないといけない。そのためには豊富な時間と資源の保証が必要となる。全くの放任ではなく,子どもたちの創造力・デザイン力によって、限界なき成長が得られるよう学習課題は周到に設定されている必要がある。教師は授業全体のデザインを決めるが,前もって詳細に指導案を作成することは不可能であり,柔軟に対応する。全ての問題について専門家でいることはできず,授業中は目立たないが,ツボを押さえた助言ができ,子どもたちと共に学ぶ姿勢が要求される。
今日の情報化は産業革命にも匹敵すると言われる。21世紀のネットワーク社会の中身をデザインし、彩り,創造するのは今の子供たちである。教育の国際化もインターネットとともに急速に進む。早い段階から自己の発信する情報に責任をもつとともに,他人の発信した情報を尊重する態度を育成することが急務である。学校のネットワーク環境の整備を始め,生涯教育も含めた地域社会との連携など,地方自治体の意識改革も必要である。