= 私の選択 ・ 家族の了解 =


 鳥取県立中央病院(中病)には、昭和53年度、卒後2年目の1年間、研修医としてお世話になりました。故・安東吾郎先生との出会い、新生児医療への願い等が育まれました。縁があり、昭和56年度から22年余、中病小児科に勤務するに至った次第です。恩師、安東先生が18年3か月、結果的に中病小児科の歴史では最も長期間奉職した次第でした。

 その後、これまた縁があり、学生時代以来の武田先生との出会いがあり、平成14年度の組織改革に伴う初代の医療局長を担うことになった経緯がありました。副院長格、県の人事では次長級の医療局長で、医師70余人をまとめる要職でしたので、小児科臨床からは離れた実態となりました。

 昭和56年4月以降、中病小児科においては、新生児医療、その地域的なシステム化や超未熟児(超低出生体重児)等の救命率の向上等ハイリスク新生児を担い、昭和62年度からの骨髄移植(造血幹細胞移植)とくに、平成元年2月からの自家骨髄移植、そして、鳥取県立鳥取療育園長としての13年間の地域療育の推進、全国の肢体不自由児通園施設協議会のお仲間との出会い・そしてさまざまな活動など、一方では、院内の感染対策関連やボランティア委員会活動など、かつまた、外来棟の建設、オーダリングシステムの開発・導入など、実に多種多様な活動に精力的に取り組ませていただけました。

 この間、拙い限りでしたが、小児科の臨床論文を数多く執筆することが出来て、究極は、鳥大小児科前教授であられた白木和夫先生から医学書院刊「小児科学第2版」の一単元である「小児のQOL」の執筆をするに至りました。中病の小児科医として、自身の予測を越えて数多くの仕事をさせていただいた(やり尽くした)思いがありました。
 そして、平成15年7月の人事異動における機会等に恵まれたことから、一念発起し、新たな立場で小児科医として再出発を目ざすことにしました。

 振り返れば、自身、若い頃には、地域の病院において、子どもたちの生活が見れる小児科医になりたい意向を持ち続けていました。昭和50年代に智頭病院小児科においてS宏子先生が地域医療を担っておられ、平成元年度には、安東先生が郷里に帰られることに連動された形で、A由美子先生が岩美病院に赴任されたのですが、その度にある種のうらやましさを感じていたことを思い起こします。

 が、いつしか、中病での責務が増していったこともあり、いわば初心を忘れていたわけです。

 ところが、平成13年度当初、智頭病院の常勤小児科医が不在となっとなって間もない頃に、智頭町からの子どもたちが相次いで救急外来を受診されたのです。そして、あるお母さん方は、「智頭町では安心して子育てが出来ない。小さな子どもを持つ親は鳥取に出てしまう」といった心情をお話されたのでした。

 平成15年7月の人事で、小児科の陣容と病院の管理体制が整ったこともあり、小児科医が不在となって1年半を過ぎた智頭病院小児科に今後の臨床小児科医として、新たなチャレンジをすることの願いを、院長にお話し、理解をして戴けました。同日、智頭病院長にもお電話をし、歓迎の意を表明された経過でした。7月14日のことでした。

 経緯を家族は了解してくれました。そして、実母に話すと、自身は忘れていたことですが、流石に母親です。「お金や地位・名誉は期待しないでくれ。地域の子どもたちの生活がみれる小児科医になりたい」といった内容を、医師になって間もない頃に話していたそうです。

 そうした経緯があって、機熟して、11月1日、新たな小児科医としてのチャレンジが・・・ : 自身、楽しみにしています。

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