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本稿は、1999年3月に県の関連で記したメール文です。 | |
「最重度の方が社会の一員として生活できることは、その方より若干軽い方が、さらに軽い方は勿論、社会参加出来ること」を示します。つまり、障害が重いとか軽いとかは本質的な違いにはならないのです。勿論、重度であればあるほど、願いはあっても家族と共に生活が出来なかったがゆえに、施設が生活の場となり、通常の社会生活からは離断されてきたのは事実です。 しかし、重度障害と診断されていても、自らが望めば地域社会で生活できる体制の整備が必須な時代に入ってもいます。ここでいう重度障害の診断は、医学的診断であり、イコール社会生活上の自立が出来ないことではありません。繰返しの視点になりますが、医学的診断で、IQが60の方が、生活する地域によって、自立度が異なる事実はあります。 先進国の中で、わが国で目立って多い、いわゆる「寝たきり老人」は、同じ医学的な、例えば、脳血管障害であっても、生活する国によっては、その後の社会生活との関わりが大きく異なる事実を物語っています。日本では、病院機能の再編云々や、保健〜 医療 〜福祉の連携が唱えられていますが、各々の連携はまだ乏しく、さらには病院も個々が経営を表に出して、本来の機能別、専門性の高い病院群には分けられていません。 要するに「重度障害の方は、援助を多く必要とし、軽い方は少しの援助を必要として、同じ社会の構成員として、触れ合い、支え合い、学び合って生活することが願いです。 赤ちゃんは全面的にお母さんをはじめとしたご家族の方々の援助が必要です。幼児期から学童期にかけては、園や学校においての学びだけではなく、地域の子育て機能が高まり、家族以外の地域の方々との触れ合いの中で、豊かな人間性が育っていきます。つまり、子どもがよりよく育つには、地域社会の援助が必要です。 私たちの地域社会には、運動機能が低下し歩行車を必要としたり、重い荷物を移動するための援助を必要としている高齢者と触れ合うこともありましょう。また、車椅子の方、視覚障害の方にも出会うでしょう。みんなが出会って、触れ合い、支え合う地域社会こそ、今のあなたが心をリラックス出来て、心豊かな生活の実現に近づくことでしょう。あるいは、将来、あなたが高齢者となった際に、そうあって欲しい地域を、今から育むことになります。 小生は「砂丘マラソンに挑戦したいなぁ」と思うだけで、日々のランニングに至りません。小生は「雪山でスキーをするって爽快だろうなぁ」と思いながら、そして、スキー場が手の届くところにありまがら、体験は皆無です。小生は、美術館で絵を見ることがすきで「油絵にチャレンジしてみたいなぁ」と思うばかりで、さっぱり実現できていません。が、それらは皆、夢としてありますし、荻原兄弟や原田選手が頑張ってくれたりするのに、自分の夢を乗せて、声援しています。 車椅子の方が、マラソンが出来る形式の車椅子に出会って、挑戦し、車椅子マラソンへの出場を実現したり、さらには、スキーをしたり、ステキな絵画を描かれておられるという報道を得て、さらに、嬉しくなります。「出来ることを強調して行くことで、発明・発見が、研究段階から実用化され、私たちの社会を豊かにしています。 「強調しすぎる」というのは、単なる主観であり、個人的な意見でしょう。「重度障害の方が貢献できることは何もない」というのは、自らが、重度障害を序列化し、否定し、差別している視点に由来しているのではなかろうかと思えます。 小生にとっての米村友孝・妙子:お父ちゃん・お母ちゃんの言葉を思い起こします。息子さんに対して「チー坊が望んだわけでなくて、チー坊に責任があったわけでなくて、筋ジスになったんだから、他の数千人の方が救われたでしょう。自分を卑下したり、くよくよすることではない。堂々と生きなさい」とした視点です。 「重度身体障害は、あなたが望んだわけではないでしょう。人間が多く集まると、一定の頻度で、多様な障害が発生している事実があります。あなたが、たまたま、重度身体障害という役割を担われたのであり、ひょっとしたら、自分自身が、あの人が、重度障害であったのかもしれない。今の鳥取において、こうして意見を出し合い、いっしょに住み良い社会にしていこうとしている(重度身体障害のある)あなたの役割はとても大切です。 あなたが、あなたの考えを疎かにしたり、私的な見地のみで発言したりすると、あなたより軽い障害の方が困られます。重度障害のあなたが、鳥取に生まれて暮らして、「あぁ、すてきだった。思う存分やり遂げた」と自分自身を「是」と出来るように、堂々とした人生になるようにと願います。 そして、私たちは、あなたから学び、心豊かな鳥取県、住みやすい鳥取県となるように誠意を持って、具体的な方法論を展開します。そう、最も重い障害者されているあなたこそが、要(かなめ)・主役であるともいえます。あなたが何も出来ないと言うことはないのです」。 仮に、知的障害と身体障害の、どちらも重度障害を有している方がおられたとしても、本質は同じです。赤ちゃんは自ら意思表示しませんし、自ら移動できません。そして、私たちは、赤ちゃんの願いを重んじ、次の世代へと託します。重度重複障害のある方々から、私は、私たちは、目を見つめ、表情から、わずかなサインから、どうあるべきかを学びます。命の何たるかを学びます。人間として、どのように支え合うべきかについて、本気で考えるきっかけを、エネルギーをいただきます。重度重複障害のある方にも、社会的な役割があるのです。 そして、重度重複障害のある方に、社会的な役割がないとするならば、少し軽い方は、どうなのでしょうか・・・。結局は、偏差値の低い子はダメな子だといった、これまで日本が進めてきた(進めざるを得なかった)教育に縛られた視点ともいえましょう。「効率の悪い子・人は劣る」とする考えこそ、合いも変わらず、モノの豊かさを追求め、心の豊かさを失ってしまった日本人の貧しい様態といえます。ゆえに、今の、これからの福祉は、参加型であり、支え合う福祉でもあります。 重度障害の在る方も、社会を支える役割を担うという視点です。これからの地域福祉には、従来的な障害のある方、ましてや、重度障害のある方の役割は大きいのです。 以上、本音で考え、実践を進めたく考え・願います。 あなたは「障害・障害児」に学べますか? 対等の関係性があり、触れ合い、癒され、学びを得ている場合に、差別・偏見の視点はあり得ないのだろうと考えます。「障害」を差別することは、自身の中の劣った面に対して、自身を否定し、卑下し、さらに弱い人を攻撃する視点にも至りかねません。 健康と思っている人それぞれに個性があり、得意なこと、苦手なことなど、実に多様ですが、苦手な所、弱い自分も受容し、自身を癒しつつ、支え、支えられあってこそ、心豊かな人生の秘訣があるいえます。 通念的には、気持ちとしては、子が親より先に人生を終えるということは、とても辛いわけですが、「チー坊との出会いがあったからこそ、私たちは、本当に学びの多い、出会いの多い、充実した人生を贈られたといえます。今日も、チー坊といっしょに、そう、チー坊は、いついつまでも私たち夫婦と共に生き続けているのです」といったお父ちゃん・お母ちゃんです。どんなに重い障害があったとしても、命と命の出会い、わが子からの学び、育ちあえる関係性は、本質的には、障害の有無とは別物だと考えます。小児科医、とくに、周産期センター長として、あるいは、鳥取療育園長として、子どもたちの立場からの願いを、メッセージを関わりのある方々に、着実にお届けしていくことが、どうやら、小生の社会的役割・責務の一つともなっているようです。大人のしがらみ云々ではなく、とにかく、社会的弱者といえる、そう、言葉を持たない新生児、乳幼児の立場にたって、命の何たるかなど・・・。 航空業界から、今や、医療業界にも波及しているリスク・マネージメントに相当するのでしょうか。医療に関して言えば、生命の危険性を孕んだ問題性が生じた際には、その背景において、ニアミス的な事象が多々重なっていたと評価し得る。ちょっとしたことと思える事象を適格に捕らえて、先手的に方法論を展開していくことで、生命や後遺症に関わるトラブルも防げるでしょう。 上記の観点を、辛く、悲しい差別的落書に置き換えて考えたく思います。 学校教育、社会教育のあらゆる機会を捕らえて、継続的に取り組むべきことと思います。一方で、「なぜ落書をせざるを得なかったのか」を、子どもたち、大人達に考えさせて答を導き出す教育方式が肝心で、旧来的な、価値判断・道徳規範を強要するがのごとくの、一方通行的な教育ではない方式が望ましいわけです。そう、きっと、同和問題に限定せず、自分自身の人権問題に直面することであるとの視点での到達が得られると思います。 「障害を強調するがあまり、障害面を直視し、まず、否定的に捕らえるように、逆説的な教育効果が出ると辛い」のです。「差別意識」を取り上げることに関して、小生の日常生活においては縁遠いので、コメントしきれません。少なくとも医療、療育の日常において、問題になる機会を得ていない(と思いこんでいる)のですから・・・。(付:病院において、小生の気がつかない場面で、多々、問題が発生しているのでしょう。とくに、高齢者の方に対する言葉のかけ方、あるいは、肩書きを見ての対処の仕方など、指導者も含めて、点検する作業は必須なのだろうと思えます。) 職員同士において「・・先生」呼称が似つかわしくないとの視点です。小生も、先生と呼びたい方がたくさんおられます。一方で、ワークショップなどの機会をはじめとして、肩書きや立場にとらわれて、アイデアや意見などが出て来ないとしたら、これはもったいないことです。肩書きが「上」で、これに捕らわれて、自分の意見が「上」と思う上司に仕えるのも危険を孕むことになろうかと...。 構図として、少なくとも鳥取県においては「障害者」「行政」が対峙しないで、併走者、共同体としての位置付けで「今から」取り組めないでしょうか? 問題が大きければ大きいほど、視点が「かわいそうな私・私たち」「悪いあの人・あの人たち」あるいは「悪い私・私たち」「かわいそうなあの人・あの人たち」の原因論・責任論・感情論的視点に陥ってしまいがちで、そこから出てきた方法論は、一般化し難いものに留まっているのかもしれません。 「過去のあらゆる問題は、その時・時代、その人・人たちが、そうせざるを得なかったとの認めにたつ」ことを基本とし、勿論、歴史を否定するのではなく、広い視野で、そう globally thinking, locally acting を大切にし、「今・今からの具体的な方法論」を、共に構築していきたいと考えます。 と、書きまして、自分のエリアでの役割もまた、そのように展開することを大切にと、再認識している次第です。 前段の観点からですが、病院においては、「人権」というより、「接遇」の観点での取組みがあります。職員が、とくに、県立病院にて「お役人的職員気質」(お上)的な上下関係に捕らわれた、前時代的な姿勢でいるならば「接遇」は、中身のない空念仏に留まります。 小生は、ボランティア委員長の責務をいただいています。この活動を通じて、病院職員の意識改革の一つの実践場面が、外部者が入ることにあろうと考えます。 ともすれば閉鎖的な、視野が狭くなりがちな病院人に対して、効果的なのだろうと考えます。本物の「接遇」は、知識伝達的な学習では、上っ面な方法論では育ちにくいと思えます。「中央病院ふれあいフェスタ」をはじめとしたイベントや、日々のボランティア活動を通じて、職員が実践を通じて学べる効果も得られているのだろうと思います。 たまたま専門技術職としての役割があるのですが、根本には、各々の人生があり、喜び、悲しみなどを共有することがありますから、この気づきのためには、多少のゆとりや、視野が広がることが必須となりましょう。この点で、病院ボランティアさんが、ボランティア活動がもっと日常的に拡大することを願います。 今回のこの一連のメールの授受から、病院におけるボランティア活動を考えるための外部者ボランティアを依頼し、組織的に活動を展開することを、次年度は行いたいとも考えました。この取組みの中で、人権・接遇の観点も含め、それを、活動として展開していくことにしたいと考えます。 諸外国と比べれば、日本は恵まれていますよね。紳士の国と言われるイギリスも多民族国家といえ、貴族階級から国民としての登録がなされていない移民まで、格差は著しいわけですし、米国においても相変わらず人種差別が問題となり、さらには、今日的問題では、犯罪者の急増や、刑務所内部における体罰、殺傷事件などナド・・・、インドもカースト制、その他・・・、さらには、例の、宗教における「戦争」や、難民など、「一体どうなってんだぃ!」と、赤ちゃんに叱られる状況といえます。まさか、赤ちゃんは差別等しないでしょうからね |
● 十年一昔 ・・・ 重度障害のある方々からの要望等が県に届き、考え方などについて、担当者から求められ、小生の学びをお届した次第でした。県が作成した資料(パンフレット)に一部が盛り込まれています。 読み直すと、オムニバス的な記述ですが、今尚、自身で再考する中身があり、HPに残すことにしました。(2010/ 9/25) |
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